
フィリピン
1 章 基礎知識
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1 章 基礎知識
2 章 投資環境
3 章 設立
4 章 M&A
5 章 会社法
6 章 会計
7 章 税務
8 章 労務
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基礎知識
■正式国名➡フィリピン共和国英語名:RepublicofthePhilippinesフィリピン語名:Republika ng Pilipinas■国旗.png)
フィリピンの国旗は、国連方式の縦横 比2:3ではなく縦横比1:2となってお り、通常の国旗よりやや細長い形をして います。白は「平等と平和」、青は「真実と正義」、赤は「勇気と愛国心」、黄色い太陽は「自由」を象徴しています。また、3つの星は主要な島であるルソン島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島を、太陽から出ている8つの光はスペインに立ち向かった8つの州を表すものとされています。■ 面積・国土 ➡ 299,764㎢(日本の約8割の大きさ)フィリピンの国土面積は、299,764㎢で日本の約8割の大きさとなっており、世界71位の広さです。地理的には、東にフィリピン海(太平洋)、西に南シナ海、南にセ㆑ベス海と四方を海に囲まれる海洋国家です。また大小7,109の島々から成る島国で、インドネシアに次いで世界第2位の群島国家です。しかし人が住んでいる島は1,000程度で、その他はいわゆる無人島です。主要な島は首都マニラがあるルソン島、南のミンダナオ島、 中央のビサヤ諸島等で、主要な11の島でフィリピンの総面積の96% を占めています。.png)
■ 首都 ➡ メトロ・マニラフィリピンの首都の正式名称はメトロポリタン・マニラ(Metropolitan Manila)であり、通称メトロ・マニラ(Metro Manila)です。NCR(National Capital Region)とも呼ばれています。その名の通り、メ トロ・マニラは14都市と3つの地方自治体により構成されています。 通常、メトロ・マニラといえば、次ページの地図を指します。フィリピン全体で見ると、ルソン島の南に位置します。都市部の人口は約1,200万人。近郊の人口も含めると2,293万人程度となり、世界第5位の大都市圏を形成しています。.png)
■ 気候 ➡ 熱帯モンスーン型気候フィリピンは、1年を通して気温・湿度の高い熱帯モンスーン型 気候です。季節風の影響によって3~5月までのタギィニット(Taginit)もしくはタグアラウ(Tag-araw、酷暑期)、6~11月までのタグウラン(Tag-ulan、雨期)、12月~翌年2月までのタグラミッグ (Taglamig、乾期)の3つの季節に分かれます。季節の各名称はタガログ語のものになります。またフィリピンの国土は緯度にして15度以上に広がっており、高い山々や火山も多いことから、地域によって気候に大きな差が生じます。 下記は地域別の月別気温の推移です。次の図の通り、基本的には年 間を通して気温は高いです。しかし、地理的な要因から気温の高くない地域もあり、バギオというマニラから北に250km離れたコルディ㆑ラ山脈の中にある標高1,500mの小都市では、年間平均気温約18 度とフィリピンで最も涼しくなっています。そのため、夏場はバギオ に大統領官邸が移されています。
出所:MSN
■時差➡-1時間(UTC+8)日本との時差は-1時間であり、サマータイムの導入は行われていません。なお、日本が正午のとき、フィリピンでは午前11時となります。
■人口➡1億420万人(2016年時点:International Monetary Fund)フィリピンの人口は継続的に増加し、毎年1.5%以上の成長率を見せており、2023年には、日本の人口を超えると見込まれます。多数 の民族が存在する多民族国家です。主な民族は、マニラがあるルソン島中部などに住むタガログ族で総人口の約28%です。政府は1987 年に、マニラ地域で話されていたタガログ語を標準化した言語として、フィリピン語と称するようにし、英語とともに公用語としました。 次いで、セブアノ族が総人口の約13.1%を占め、言語はセブアノ語です。その他には、イロカノ族、 ビサヤ族、ヒリガイノン族、ビコラノ族等がいます。.png)
※ 2017年以降推定値 出所:International Monetary Fund■言語➡フィリピン語と英語国語はフィリピン語、公用語はフィリピン語と英語となっていますが、母語として使われる言語は合計172に及んでいます。国内で言語が異なると不都合が生じるとして、フィリピン政府は国内全域で通用する共通言語を求め、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に努めています。文字は、ラテン文字(ローマ字)を用いています。母音はa, e, i, o, uの5個、子音はp, t, k, (ʻ 声門閉鎖音), b, d, g, m, n, ng, s, h, l, r, w, yの16個ですが、人名地名等の固有名詞には c, f, j, q, v, x, z も用いられます。
■通貨➡ペソ使用通貨はペソ(Peso, 省略:PHP)です。正式名称は、「ピソ」ですが、日本では「ペソ」と呼んで慣れ親しんでいるため、本書でも「ペソ」を使用します。 為替制度は、完全変動相場制をとっており、最新の為替㆑ートは以下の通りです。2.24円/ペソ(2017年 7月12日現在/フィリピン中央銀行)■宗教➡キリスト教フィリピンは東南アジアで唯一のキリスト教国家といわれていますが、そのうちほとんどがカトリックです。キリスト教はスペイン植民地時代に広まり、スペインが伝えたものは、ローマ・カトリックであったため、今でも国民のほとんどがローマ・カトリックの信者です。キリスト教徒は、フィリピンの総人口の90%以上を占め、そのうち、ローマ・カトリックが83%、プロテスタントが9%となります。 その他の宗教としては、イスラム教が南部を中心に5%、仏教が3%等となります。
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政治体制と歴史
■政治体制フィリピンの政治体制は、大統領制、代議士制、民主制の共和国です。大統領は、国家元首と政府首長の両方の役割を担います。また、政府は立法府(法律の制定)、行政府(法律の行使)、司法府(法の解釈)の三権分立制です。行政権は、国家元首と政府首長を兼任する大統領に委ねられ、大統領は指名委員会(CommissionofAppointments)の承認を得て、各行政省(Executive Department)の長官(Secretary)を指名し、各長官は、内閣(Cabinet)を結成します。大統領の任期は6年です。立法権は上院と下院の二院が有し、司法権は最高裁判所(Supreme Court of the Philippines)が有しています。[国会]フィリピンの国会は上院、下院の二院制です。上院は24議席であり、任期は6年間で、上院議員の2期連続の就任は認められていません。下院は最大で292議席までと規定されており、現在は214議席からなっていて、議員選出は一般投票制であり、任期は3年間となっています。[司法]フィリピンの司法機関は基本的には下級裁判所、上級裁判所、高等裁判所・控訴裁判所、最高裁判所の4種類があり、その他特殊な裁判所も存在します。下級裁判所以下の4種類があります。•首都圏裁判所(METC:MetropolitanTrialCourts)➡首都圏•市自治体裁判所(MTCC:MunicipalTrialCityCourt)➡首都圏外の市•自治体裁判所(MTC:MunicipalTrialCourt)➡上記以外の地方自治体•自治体巡回裁判所(MCTC:MunicipalCircuitTrialCourt)➡複数の市町にまたがる巡回裁判区ごとに設置
上級裁判所上級裁判所(RTC:Regional Trail Court)は、各地域にいくつかの支部を持ち、裁判の執行や証拠品の受理等を行います。
シャリア裁判所シャリア裁判所(SCC:Shari'a Circuit Court)は、イスラム教義の解釈及び従属法への適用のもとに審理を行う裁判所です。イスラム教徒の多い地方や州に設置されています。高等裁判所・控訴裁判所高等裁判所・控訴裁判所(CA:Court of Appeals)は死刑判決あるいは行政監察官事務所(Office of the Ombudsman)の行政上の懲戒に対する裁決の再審も行います。公務員弾劾裁判所公務員弾劾裁判所(SB:Sandigan Bayan)は収賄を裁く裁判所で収賄や汚職の罪に問われた公務員やその共犯者の審理及びそれに関連する民事責任の追及のための民事訴訟を行います。最高裁判所最高裁判所は最高裁判所長官1名と14名の最高裁判官で構成され、これらの裁判官が全員列席となるか3つの部門に5名ずつの出席が必要となります。法定の権利の要求や行使に関する係争の裁定、及び政府機関の裁量の濫用による権力の行使懈怠や過剰な行使に関する裁定等を行います。■歴史
[スペイン領時代]フィリピン諸島は、2万2,000年前はアジアと陸続きであったといわれています。水面が上昇し、アジア大陸から分類した後、東南アジアから多くの人々が移り住んでいきました。そのため、フィリピンでは今でも数多くの言語及び文化の異なる民族が暮らしています。14世紀後半から、中国やインドで海上貿易を行っていたイスラム商人の影響もあり、イスラム教もこのとき初めてフィリピンに伝わってきました。時を同じくして、1521年にマゼラン率いるスペイン船団がフィリピンへ到着します。彼らは武器の威力を背景に、フィリピン現地の有力者たちへスペインへの服従とキリスト教への改宗を求めました。しかし、スペインはリーダーであるマゼランを失い、完全な支配はできませんでした。支配が本格化したのは、1570年ごろからです。そもそも、香辛料を求めてフィリピン支配を行ったスペインでしたが、香辛料は発見されず、フィリピンは交易の中継地点としてみなされるようになります。また、1578年には当時有力なイスラム国であったブルネイがスペインに敗れるという事件もあり、次第にフィリピンでのイスラム勢力は下火となり、キリスト教が広く布教されていきます。スペインはフィリピンの運営で、麻やタバコ、砂糖などをアメリカ、イギリス市場向けに生産させました。以後、植民地支配は長く続きます。転機は1898年にアメリカがキューバ独立戦争へ介入し、同年4月に米西戦争が勃発したことから始まります。アメリカはフィリピンの独立に協力することを条件として、フィリピン独立を狙っていた秘密結社の指導者、アギナルドと手を結びます。彼は香港へ亡命していましたが、アメリカからの打診を受けて、独立運動を再開し、6月12日に、アギナルドは独立宣言をしました。8月13日に米軍はマニラにあったスペイン総督府を陥落させ、9月15日には革命会議を開催しました。一時的に政権はフィリピンにもどったものの、政治は安定せず、アメリカが統治することとなります。[アメリカ植民地時代~日本の統治時代]アメリカは当初植民地政策をとっていましたが、フィリピンの自主統治へと移行させようと考えていたため、有能なフィリピン人の育成に力を入れ、ルーズベルト大統領は「フィリピン=コモンウェルス」(米自治領政府)を樹立させ、フィリピンは政府と大統領を持つことになりましたが、このときの政府はまだ、アメリカの傀儡政権であったといえます。第二次世界大戦中の1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が勃発します。1942年には日本軍はマニラを占領し、1943年にはアメリカ極東陸軍が降伏、事実上日本がフィリピンを征服します。しかし、日本軍は既存の統治機関を活用するようにしたものの、離反が相次ぎました。第二次世界大戦も終わりが近づくにつれ、日本軍とアメリカ軍の勢力が逆転していきます。1944年10月にはアメリカ軍が㆑イテ島で日本軍を破ります。また翌年2月にはマニラ市街戦が開戦、アメリカ軍が勝利を収め、日本軍からフィリピンを奪回しました。第二次世界大戦後、フィリピンは独立するものの、アメリカに依存した状態が続き、実質的にはアメリカ主導の政治が展開されました。[マルコス大統領時代]1965年に自由党のフェルナンド・E・マルコス氏が大統領になると、マルコス独裁の時代に入ります。マルコス大統領は経済開発を最優先課題とし、外交的にも社会主義諸国と国交を結ぶ等、ある面では成功をおさめました。具体的には、1970年代に平均6~7%の経済成長を実現しました。政権後半になると経済的権益を支配する傾向が顕著になり、テロやゲリラが日常化していきます。特に、1983年に政敵の元上院議員ベニグノ・アキノ氏がマニラ空港(現在のニノイ・アキノ国際空港)で暗殺された事件は、国民の不満が表面化した結果です。政情不安を感じた投資家や企業は、他国へ逃避するようになり、フィリピン経済はこの期間低迷しました。マルコス大統領はこのような状況の中、1986年2月に自らがフィリピン国内で人気があるということを示すために突然の大統領選挙を行うことを決意します。しかし、1983年のベニグノ・アキノ氏の暗殺により、未亡人となったコラソン・アキノ氏も反マルコスを掲げて選挙に出馬しました。1983年の事件以後、コラソン・アキノ氏は国民の中で反マルコスの象徴として支持を集めていました。この選挙では、マルコス政権が開票操作を行いましたが、カトリック教会やアメリカ政府が非難し、国民もコラソン・アキノ氏のイメージカラーであった黄色のTシャツを身にまとい、約100万人がデモを行う、というエドゥサ革命が起きました。その後、コラソン・アキノ氏が大統領に就任することになり、マルコス大統領による20年以上に渡った長い独裁政治は幕を下ろします。同年マルコス氏はハワイへ亡命し、1989年に死去しました。[アキノ大統領時代]新たに大統領に就任したコラソン・アキノ氏は、まだ政情が落ち着いていないこともあり、6年の任期中に、7度のクーデター未遂に見舞われました。1989年には軍反乱事件が起きたものの、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧しました。また、自然災害にも見舞われることが多く、1990年にルソン島中部で起きたバギオ大地震、1991年の ピナトゥボ火山噴火など、不運が重なった時期でもあります。これらの自然災害は、インフラの構築を遅らせ、ASEAN諸国からフィリピンが経済的に後退する要因になりました。1992年に大統領に就任したフィデル・ラモス氏は新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の向上を実現させました。フィデル・ラモス氏は前述のエドゥサ革命時の国軍参謀次官であ り、フアン・ポンセ・エンリレ国防相とともに、マルコス大統領の独裁に反対して決起し、政権崩壊に貢献した人物です。国軍参謀総長として、コラソン・アキノ大統領を支え1988年1月、国防相に任命さ れました。アキノ大統領により後継者に指名され、大統領に就任してからは、国営企業の民営化と外資の誘致に力を注ぎ、発電所の建設など、多くの成果を残しました。ラモス氏のこのような経済政策は国民の支持を得て、1995年の議会選挙では多数派を占めます。しかし、この経済成長がもたらしたフィリピン国内の雇用拡大への効果は限定的でした。また、所得の面から、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持されてしまいます。ラモス氏は1998年に退任しました。同年、ジョセフ・エストラーダ氏が大統領に就任しますが、2000年に政治的な不正が発覚し、下院により弾劾を受けます。市民デモも活発になり、任期満了前の2001年1月に退任してしまいます。2001年からは当時副大統領であったグロリア・アロヨ氏が大統領に就任しました。デモ・暴動や反乱が起こり、政情は安定しませんでしたが、2004年の大統領選挙に再度立候補し、100万票以上の差を付けて当選しました。内政政策としては、社会階層を超えた国民融和、反政府勢力との和平を重視し、また政局安定化の鍵として憲法改正(議院内閣制、一院制、連邦制への移行)を掲げました。外交面では、安全保障、経済外 交、海外出稼ぎ者保護を重視しつつ、中国、日本、米国との関係を重視しました。特に、海外出稼ぎ者保護及びエネルギー安全保障の点から中東諸国との関係を強化しました。これらの政策は一定の評価を得たものの、国内での支持率は高くありませんでした。2010年、ベ二グノ・アキノ3世は、国民の健康と教育に対する投資、また不正や貧困と戦うことを選挙公約として選挙戦を戦い、6月8日に行われた選挙で大統領に選ばれました。彼はコラソン・アキノ元大統領の息子です。政策として、増税反対、国内産業保護を訴え、「汚職なければ貧困なし」をスローガンに、中間層、高所得層に広く支持されています。優先政策である、官民パートナーシップ(PPP: Public Private Partnership)スキームによるインフラ整備事業を表明するなど、政府内の体制整備にも力を入れてきました。インフラ整備費については、2010年ではGDP比で約1.8%であったものを2015年には同4%にまで高まりました。インフラ整備が加速したことにより、民間投資の呼び水ともなりました。財政政策については、2012年には、酒・たばこにかかる税率を段階的引上げの法案を成立させ、不透明な税関の組織改革に取り組み、歳入は名目GDP対比で、2010年の約13%から2015年には約16%に拡大し財源確保も実現しました。汚職対策については、反汚職計画を策定し、問題への取り組みを始めた結果、世界各国の汚職撲滅のために活動しているトランスペア㆑ンシー・インターナショナルが毎年発表する腐敗認識指数ランキング では、フィリピンは2010年の134位から2015年では95位にまで上昇しました。経済成長も2010年から2015年までで、実質GDP成長率は、年平均6.2%を達成しており、政情も安定していたことは、これまでの政権と比較して、投資家や企業にとって好ましい状況であったといえます。[現在]フィリピンへの外国からの直接投資は一時期よりは回復傾向にあるものの、タイやベトナムなどの周辺諸国と比べるとむしろ溝が開きつつある状況であり、これは主に「不安定な政治」、「治安が悪い」などの印象がぬぐい切れていないことに起因すると考えられます。そのような中で2016年6月30日、ダバオ市長を務めたロドリゴ・ドゥテルテ氏が第16代大統領に就任しました。任期は6年です。ドゥテルテ政権もまた、前アキノ政権の財政、金融、貿易等これまでのマクロ経済政策を継続・維持する方向でいます。ドゥテルテ大統領は、官民パートナーシップの活用やインフラ整備費をGDP5~7%に拡大させたインフラ整備の加速、そのための財源確保に向けた法人税率の見直しや関税の徴収漏れの強化による財政改革、さらに外資誘致のための外資規制緩和を進めるなどの方針を掲げています。中でも最も特徴的であり、国内外で様々な反響を呼んでいるのが、麻薬の取締りを中心とする犯罪撲滅を最重要政治課題としている点です。ドゥテルテ大統領は、検察官出身というその職歴が物語るように、ダバオ市長時代から積極的かつ強硬に進めていた治安対策を大統領就任後も推し進めています。また、関税局や内国歳入庁の職員に対する汚職の情報収集を始めるなどの汚職対策といった方針を強化する姿勢を見せています。他方、対外関係においてドゥテルテ氏は日本、アメリカ、ロシア、中国などの国々と多面的な外交関係を模索しており、その中で既に2017年1月には日本から政府開発援助(ODA)や民間投資を含む5 年間で1兆円規模の投資を引き出すことに成功しました。このように、国内ガバナンスの改善と対外関係構築の両輪がうまく噛み合えば、国内における民間投資の拡大や海外からの直接投資の誘致につながり、更なる経済成長の実現につながっていく可能性は十分にあると予測されます。
■日本とフィリピンとの関係両国の本格的な貿易が始まったのは1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易が行われるようになってからです。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み、各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラ等に日本人町が作られました。1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀初頭には1,500人、最盛期には3,000人にもなりました。しかし、1633年以降の鎖国令によって日本人町は衰退し、やがて消滅することとなりましたが、再び1910年代に農園経営のための日本人労働者がダバオに大量に移民しました。1916年には町の日本人人口が1万人を超え日本人街が形成されました。良好であった両国の関係は、第二次世界大戦を転機に変わっていきます。第二次世界大戦中の1941年12月に日本軍がマニラに上陸し、翌1942年中に占領しました。日本軍政下の経済混乱がフィリピンの民衆を苦しめ、日本軍に抵抗する目的を持った連合軍系の組織が、抗日ゲリラ戦争を行いました。これに対し、日本は支配を安定させるために1943年にラウ㆑ル氏を大統領として、フィリピンを独立させました。しかし、ラウ㆑ル政権は必ずしも日本のいうことをすべて聞き入れたわけではなく、地主支配の維持を図ったために、フィリピン親日派からも離反が相次ぎました。この戦争によって110万人のフィリピン人が犠牲となりました。マニラに20棟あった16~17世紀に作られたバロック様式の教会は2つを残して破壊されています。これらの被害は、両国の関係に暗い影を落としました。1956年、日比賠償協定の締結によって日比間の戦争状態が正式に終結し、これに続いて1960年に調印された日比友好通商航海条約をきっかけに、両国の関係は改善していきます。今では、フィリピンに とって日本は開発援助、貿易、観光において貴重な資金源となっています。1990年代においても両国の関係は良好なものでした。日本側の行為を謝罪した歴史的な事例として、2009年5月に藤崎一郎駐米大使が、2010年9月13日に岡田克也外務大臣が「バターン死の行進」について正式に謝罪を行ったことがあげられます。現在、フィリピンにとって日本はアメリカ、香港に次ぐ3番目(2018年時点)の輸出相手国であり、輸入相手国としては中国、韓国に次いで3番目(2018年時点)に位置しています。外務省領事局の統計では進出日系企業数は前年比4.3%増加の1,502社(2017年10月)となっています。
また、フィリピンにとって日本は最大の援助供与国です。日本にとっては、フィリピンは最重点供与国の一つであり、対フィリピン援助額は日本二国間ODAの累計では、インドネシア、中国、インドに次 いで第4位に位置しています。インフラへの支援等、直接的に産業の発展に結びつくものも期待されていますが、特に初等教育分野への援助も求められています。
フィリピンは先に述べたように、平均的な出生率が高く、教育を満足に受けることができない子どもたちがいることも事実であり、この問題に対するアプローチは、長期的に求められると予測されます。問題の解決を目指して、日本とフィリピンの両国の更なる関係強化につながると考えられます。
また、フィリピン人の日本への出稼ぎも非常に多く、法務省の調査によると、在日フィリピン人が2017年末時点で292,150人と在日外国人数の約1割を占めています。2019年4月より介護業、外食業、宿泊業、建設業、造船・舶用工業、ビルクリーニング業、素形材産業、産業機械製造業、電気・電子情報関連産業、自動車整備業、航空業、農業、漁業、飲食料品製造業の14業種での単純労働を含めた就労を認める「特定技能1号」と家族滞在や在留期間更新が可能な「特定技能2号」いう在留資格が新設されました。これにより、今後も在日フィリピン人が増えることが予想されます。
■教育システムフィリピンの教育システムは、今まで初等教育6年、中等教育(日本の中学校、高校に相当)4年、高等教育(大学)4年の6・4・4制と日本より2年間短くなっていましたが、2011年度より幼稚園の義務化、カリキュラムの強化、法整備などを通して、2016年にシニア・ハイスクールの導入を進めています。これらの取り組みは、国連の持続可能な開発目標(SDGs)「質の高い教育」の達成に近づくために、フィリピンが取り組んでいるプログラム「K-12制」です。フィリピン国民の基礎学力の低下や失業率の増加というフィリピンの現状に加え、海外の大学では一般的に12年間の基礎教育を条件としているため、海外との格差の改善を目的として取り組んでいます。
また、公教育の全段階で公用語である英語とフィリピン語の2言語による教育が実施されており、初等中等教育では主に理数系の科目は英語で、文科系の科目はフィリピン語で授業が行われています。高等教育は、主として英語で行われていて、更に、貧困等の理由により学校教育を受けられない人を対象としてノンフォーマル教育が実施されています。
ノンフォーマル教育とは、学校に通わない全国の青少年及びその他のフィリピン人に対し、読み、書き、計算等の基礎教育と職業訓練等のプログラムを提供することにより、学業水準の向上や生活水準の改善を図る制度です。
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